黒い海から | 01

黒い海から | 01

母親が口を開くのを遮るように、乱暴にドアを閉めてチャリにまたがった。平日昼間。外に出るのは久しぶりで、息が白く染まるのが新鮮だった。雲は出ていないが、天気を喜べるような気分じゃない。国道に沿って坂を登り、駅前の駐輪場にチャリを滑り込ませるころには、背中がうっすらと汗ばんでいた。

ドアの横でコンビニ袋を揺らしながら外の景色を眺めていると、いつの間にか目的地に着いていた。ぼうとしていたせいで、ドアが開いて駅名が目に飛び込んできてからようやく気がついて、すでに乗り始めていた乗客たちをかき分けるように電車を降りた。改札を抜けると目に飛び込んでくるのは、ビル群、スクランブル交差点、マスクをつけた人々。さび付いた歩道橋に上り「東京に来た」と思った。

友人のユミオのアパートは駅から徒歩十分。騒がしい通りとは反対側の、狭苦しい路地を抜けたレンタルビデオ屋の隣だ。学生時代に一度来たきりだったが、道が単純なので覚えていた。途中、コンビニに寄って菓子でも買っていこうかと思ったが、自動ドアをくぐりかけたところでやめた。失業保険の残りもあと僅かだ。会うのはしばらくぶりだが、たった数百円で機嫌を取ることもないだろう。

ひび割れた壁に手をはわせながら階段を上り、部屋の前に立った。表札は出ていない。部屋番号を何度も確認してからインターホンを押すと、間延びした声がドアの向こうから聞こえてきた。
『はい』
「ユミオか? 俺だよ、来たよ」
『開いてるよ。入って入って』
ドアを開けると、むわりとした湿気とともに異臭が鼻をかすめた。廊下の横には食器が積みあがったキッチンがあり、隣には汚れ物の積もった洗濯機があった。奥のドアが半開きになっているのを見て、俺は慌てて鼻から手を放した。

「久しぶりだねーヨシタケ。散らかってて悪いけど適当に座って。あとこれ飲んでいいから」
ユミオは本から顔を上げると、そう言ってちゃぶ台の上にあるコーラボトルを叩いた。俺はうなずくと、コンビニ袋を掲げながら口を開いた。
「ちょっと飯食ってもいいか? 歩いたら腹減ったよ」
「うん」
ユミオは再び本に目を落とした。

ユミオの部屋は、禿散らかした親父の頭部みたいにゴミが散乱していた。カップ麺の容器や袋、サラ金のチラシや丸まったちり紙が、四畳半の足の踏み場をなくしている。家電は布団の脇に転がされた小さな液晶テレビと、水垢の浮いたケトルだけ。エアコンもなく、ユミオはダウンの下にトレーナーを着こんでいる。押入れに立てかけられた松葉杖に目が留まった。
「脚、また悪くなったのか?」
「別に変わんないよ。どうして?」
「前はあんなの持ってなかったじゃん」
俺は松葉杖を指さしながら言った。

「あー、あれはたまに使うだけだから」
その瞬間、廊下を小さな黒い影がよぎった。俺は反射的に立ち上がり、菓子袋を踏んで転びそうになった。
「なんだ今の……」
「ネズミ。大丈夫だよ、ほっとけば噛んだりしないから」
「ネズミなんて初めて見たぞ、俺」
「一階が居酒屋なんだ。昼間は閉まってるけどね。だからかは知らないけど、たまに出るんだ」
腕から背中にかけて、ぞわぞわと鳥肌が立っていた。俺は廊下の前に立つと、ゆっくりとドアを閉めた。

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 ユミオと初めて出会ったのは、大学に入ってすぐのことだった。校舎の案内を兼ねたレクリエーションで屋外を歩かされた時に、一人だけ取り残されていたユミオに俺が声をかけたのだ。
ユミオは脚が悪かった。杖や車いすが必要というほどではなかったが、いつも片足を引きずるようにしていたし、人より歩くのが遅かった。どうしたのかと訊くと、「高校の時に自殺未遂をした」とこともなげに言われた。理由は分からないが、ユミオは高校二年の時に校舎の屋上から飛び降りたらしい。しかし、校舎が四階建てでそれほど高所ではなかったことと、落下したのが花壇の上だったことが幸いし、脚に障害を残すだけで済んだ。

平然と話すユミオの姿に、俺は自殺未遂という言葉を疑った。だって、確実に死ぬには八階以上の高さが必要だと聞いたことがあるし、花壇に落ちるなんてまるで冗談だ。学校で行うことに意味があったのかもしれないが、少なくとも俺だったらもっと確実な方法を選ぶ。そんなことを考えながら別れて、時間が経って、なんとなく違うグループに所属した俺たちは、次第にSNS上だけの付き合いになっていった。

#

「なに読んでんの?」
コンビニで買ったおにぎりを平らげた俺は、コーラを注ぎながらユミオの手元を覗き込んだ。幼児向け玩具の図鑑のように見えるが、部屋を見る限りユミオにそんな趣味があるようには思えない。
「中国とかのパチモンおもちゃの図鑑だよ」
「パチモン?」
「これとかさ、ほら、知ってるでしょ」
ユミオはそう言って、ページの中心に載った青い二頭身のキャラクターを指差した。こいつならたしかに俺もよく知っている。しかし、見れば見るほど何かがおかしい。目鼻の配置がずれているように感じるし、色もこんなに派手だっただろうか。上手く説明は出来ないが、見ているこっちが不安になるようなバランスの悪さがある。

「知ってるけど、なんか違うな……」
「こんなのばっか載ってるの。結構懐かしいのとかもあって面白いんだよね」
ユミオはそう言ってグラスに手を伸ばした。しかし空だったので、俺がコーラを注いでやった。
「それでさ、今日はどうしたの?」
ユミオがグラスを片手に口を開いた。俺は咄嗟に答えが出ない。
「突然電話が来てびっくりしたよ。だって卒業式以来じゃない。会うの」
「そうだったかな。でもツイッターとか見てるから、あまり久々って感じもしないんだよな」
「それで、俺に何の用?」

「いや、今なにしてんのかなって……」
「ツイッター見てるなら知ってるでしょ? 俺無職だから」
ユミオはこともなげに言った。自殺未遂を告白したときと同じ、まるで天気の話しでもしているかのように。
「まじでか」
「まじだよ」
ユミオが食品会社に就職し、一年程で辞めたのは知っていた。その後もSNSを見る限りでは、平日も暇そうに見えたし、それとなく無職を臭わせるようなことも書かれていた。しかし、実家に帰るでもなく相変わらず東京に住んでいることから、まさか本当にそうだとは思わなかった。

「一年で会社辞めて、その後はバイトとかもしたけど、なんか色々うまくいかなくてさ。来月から三年目のベテラン無職だよ」
「無職がこんなとこで一人暮らしなんてできるのかよ」
「生活保護だよ。一人暮らしの方がむしろ都合いいんだ」
「ナマポって……俺らみたいな若い奴が?」
「まぁ泣き落としみたいなもんだよね。障がい者手帳とうつ病の診断書持って、しかも杖ついてさ、後は粘ってどうにかなったよ。それにうちの場合、親父が定年して実家の収入もないしね」
「お前、うつ病なのかよ」
「医者がそう言った」
「なんだよそれ」
コーラボトルも、カップ麺の容器も、この四畳半も、全てが莫迦らしく思えた。

つづく

 

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