黒い海から | 02

黒い海から | 02

俺が新卒切符をはたいて就職したのは、新人研修を無人島で行い、毎朝朝日に向かって社訓を絶叫させるような、超体育会系の先物取引業者だった。上場企業という言葉につられて、意気揚々と社会人の門出を迎えた俺は、三日で絶望し、一か月で怒声を聞き流すことを覚え、三か月で慣れた。しかし、二年目になって元甲子園球児だという上司に目を付けられた辺りから体調が悪化し、医者にかかった。診断名は心因性不眠症。三年目を目前にして、俺はついに会社を退職した。

親父は、目の下にくまをつくり五キロほど体重を落として帰ってきた俺に、「甘えているからそんな病気になる!」と一喝した。母親は当初は同情的だったが、一年を過ぎたあたりから食事のたびに小言を言うようになった。
二年間の社会人生活で貯めた僅かな金と、失業保険を切り崩しながらの生活だった。減る一方の残高を見つめながら、俺は徐々に死を意識するようになった。

「ヨシタケは今、どうしてるの?」
「俺は無職二年目だよ」
「……そっか」
ユミオは息を吐き、再び本に目を落とした。

#

 夜になり、腹が減った俺たちは近所のコンビニに入った。野菜ジュースとパンを買った俺は休憩室に腰かけたが、ユミオがなかなか来ないのを不審に思い、店内を見渡した。すると、レジ店員とユミオが何やら話しているのが見えた。店員はしきりに口元に手を当て、屈託ない笑顔をユミオに向けている。話の内容は聞こえないが、かなり親密そうに見える。やがて、俺の視線に気付いたユミオが店員に手を上げると、大げさに腕を振りながら隣に座った。

「知り合い?」
「んー、ここほとんど毎日来るからさ、なんか仲良くなった」
「なるほどな。かわいいよな。あの子」
「まだ高校生らしいよ」
ユミオは口元を緩めながら、テーブルにレジ袋を開けた。スナック菓子とレンチンしたらしい冷凍チャーハンが転がった。俺は急に話題を変えたくなった。

「口内炎できないか? そんなのばっか食ってて」
「ビタミン剤飲んでるからね。っていうかそれ言ったら、菓子パンだってカロリー相当なもんだよ」
俺はパンの袋を裏返した。
「カロリー……書いてないな」
「書けないくらいやばいってことらしいよ」
「なんだよそれ」

コンビニを後にした俺たちは、アパートの前で明日の約束をした。ネットカフェに泊まると言うと、ユミオは俺の懐が心配なのかしつこく引き留めてきたが、鼠がダメだと話すとようやく納得した。
ユミオの背中を見送った俺は、駅前まで戻り歩道橋に登った。人通りはまばらだが、車の通りは昼間にも増していて、道路一帯が趣味の悪いネオンのように輝いて見える。そそり立つビル群の中に、マンションと思しき建物を見つけた。ビルの間に小ぢんまりと収まっているが、高さは十階以上はありそうだ。俺は歩道橋を降りると、マンションに向かった。

会社帰りと思われるスーツ姿の後ろに続いてオートロックを抜けると、エレベーターに乗り最上階のボタンを押した。エレベーターのドアにはガラスがはめ込まれていたが、汚れのせいで向こう側がぼんやりとしか見えなかった。
甲高いベル音と共にドアが開くと、眩い夜景が目に飛び込んでくる。周囲に人の気配はなく、少しの間ならここにいても不審に思われることはなさそうだ。

通路に出ると奥に非常階段があった。屋上に繋がっているが、鍵が掛かっているうえに有刺鉄線が巻かれ、通り抜けることはできそうにない。諦めた俺は手すりに寄りかかると、恐る恐る身を乗り出した。すると、吹きすさぶ風のせいか、夜景は黒々とした海のように目に映り、冷気が駆け抜けるような感覚と共に眩暈がした。慌てて手すりから離れた俺は、壁に立てかけてあった脚立に腰を下ろすと、思わず自嘲の笑みを漏らした。

訳もなく高所に登る。そして、遠い地面を眺めながら、ここから飛んだら全てを終わらせることができるだろうか、なんてことを考える。飛び降りは気持ちがいいらしい。バンジージャンプとかスカイダイビングとか、好んで飛び降りる奴らがいるくらいだから、そういうものなのかもしれない。両者の違いなんて命が助かるかどうか、それだけなんだから。

ホームセンターでロープを買い、もやい結びをしてドアノブに吊り下げたのは、一か月ほど前のことだった。首を通したが、そこから体重をかけることができなかった。親に見られでもしたらことだと思い、ロープは結び目を解いて箪笥の奥にしまった。情けない気持ちに押し潰されそうになった。高所に登るようになったのは、それからだった。
ユミオは校舎の屋上から飛び降りたと言った。死ぬつもりだったのかは分からない。ただ、布団にくるまり芋虫のように過ごす日々が続く中で、ふとユミオのことを思い出し、徐々に親近感が湧いてきた。

ユミオなら、あと一歩、足を踏み出せない俺の背中を押してくれるんじゃないか。屋上で脚を震わせる俺の隣に立ってくれるんじゃないか。俺はそれを期待してユミオに会いに来た。だが、働きもしないでのうのうと生きているユミオに面喰い、ついに口に出すことができなかった。学生の頃のユミオは図太く生きるような奴には見えなかったし、自殺未遂を語った時と、日頃のSNSのニヒルなイメージとで、俺の中のユミオの印象は固定されていた。

お前は屋上から飛んだとき、どんな気持ちになった? 今でも、あの時が懐かしくなったりするのか? もしそうなら、俺と一緒に屋上に来てくれないか。
明日こそは言おう。そう決意を固めると、ふと、通路に人影が現れた。視線を感じた俺は、蹴るように脚立を下りた。

マンションを出て、近くのネットカフェチェーンに入った。フラットシートの席を取り、グラスを片手にモニターの前に腰を下ろすと、アダルト動画サイトの名前を検索した。ベルトを緩めながらリンクを押すと、アクセス制限の文字がブラウザの隅に現れた。行き場を失った右手でグラスをあおると、ため息をつきながら横になった。

つづく

 

小説連載カテゴリの最新記事