黒い海から | 03

黒い海から | 03

三度寝から目覚め、ようやく頭が晴れてきた俺は、既に時刻が十五時を回っていることに慄き、昨夜、睡眠薬を飲み忘れたことに気がついた。慣れない場所ではどうしても睡眠が浅くなる。そのための薬だった。
昨日、俺は昼過ぎにユミオのアパートに行くと言った。時間はとうに過ぎているが、ユミオから連絡は来ていない。俺は急いでネットカフェを出た。
コンビニでスナック菓子とエクレアを買った俺は、息を切らしながらユミオのアパートに入った。ユミオが甘い物を好きかは分からない。しかし、俺なりの侘びのつもりだった。

躓きそうになりながら階段を上り、ドアの前に来た。インターホンを押そうと手を伸ばすと、突然ドアが開き、女が姿を現した。面喰った俺は、部屋を間違えたのかと思い、とっさに「あっ、すみません」と言った。女は「ごめんなさい」と短く言うと、すれ違いざまに恥ずかしげな笑みを浮かべながら会釈をした。小柄だが、きつめのセーターが体の凹凸を際立たせている。歳は十代後半くらいだろうか。
女が去った後、俺はもう一度部屋番号を確認した。しかし、何度見てもユミオの部屋で間違いはなかった。

「あいつ、女いたのかよ……」
足元がぐらつくような感覚を覚え、壁にもたれるように寄りかかった。こんな姿をユミオに見られでもしたら――。そう思うと、すぐにこの場から逃げ出したくなった。
インターホンを押さずにアパートから出た俺は、近くの公園に入った。驚きに溢れていた胸の内が、ふつふつと煮えたぎるものに支配されていく。ベンチの上でコンビニ袋を逆さにすると、叩き付けるように腰を下ろし、エクレアにかじりついた。いらついた感情がつのるだけで、甘いとも酸っぱいとも感じなかった。

俺は寝坊した。しかし、何の連絡も寄越さないまま、ユミオが女を呼んでいたことが腹立たしい。
レジ店員とセーター。頭の中をぐるぐると駆けていく。走って来たのが莫迦みたいじゃないか。「一緒に死んでくれ」、なんて言おうとしていたのが莫迦みたいじゃないか。ユミオに笑われて、恥ずかしげにごまかそうとする自分を想像し、顔が沸騰するように熱くなり、冷や汗が出た。頭を掻きむしり、地面を蹴りたくなるような衝動を抑え込んだ。

ユミオのことは中途半端な奴だと思っていた。死にたい想いを引きずりつつも、恐怖と言う壁に阻まれて、仕方なくこっち側にいるような。そんな首の皮一枚の奴だと思っていた。少なくとも入学直後は――自殺未遂を語った頃はそうだったはずだ。

ユミオは変わった。結局、中途半端なのは俺の方だった。無職を隠そうともせず、東京で暮らしながら女を作るなんて、俺にそんな度胸はない。
途方に暮れていると、突然携帯が鳴った。ユミオからの着信だった。
『ヨシタケ、今日昼過ぎじゃなかったっけ? どうしたの?』
「あぁ、悪い。寝坊したよ……」
『もしかして、今起きた感じ?』

「……そんなところだな」
『あはは! 来るでしょ? ゲームとか出して待ってたんだよ』
「…………」
『もしもし?』
「……今から行くよ。飯、買ってこうか?」
『俺の分は大丈夫だよ。さっき食べたところなんだ』
着信履歴を眺めながら、俺は一人かぶりを振る。地面に落ちた菓子袋をひろい、ベンチから立ち上がった。

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 ユミオの部屋は昨日と変わりなかった。テレビ周辺のゴミが消えていたが、壁際に場所を移動しただけで、汚れていることに変わりはなかった。部屋の隅に、レジ袋に埋もれて小さなバッグが置かれていた。白いベロア生地の中心に金色のロゴがあしらわれ、明らかに女物に見える。俺は気づかないふりをした。

ユミオが用意したというゲーム機は埃を被っており、雑巾で拭きながら指摘すると、「数年ぶりに引っ張り出した」と言われた。菓子袋を開けて悠長に摘まんでいると、ユミオが脇腹を突いてきた。数年ぶりと話したくせに待ちきれないらしい。俺は袋を抱えて残りを流し込んだ。

「ユミオはさ、これからどうするとか考えてるのか?」
コントローラーを握りながら口を開いた。テレビが小さいせいで操作が思うようにいかず、ユミオに負けっぱなしだった。
「これからって?」
「いや、ずっと今のままって訳にもいかないだろ。家からなんか言われたりしないのか」
「仕送り貰ってる訳でもないし、連絡さえつくようにしてれば、後は勝手にって感じだね。部屋が寒いのはあれだけど、それ以外に困ることもないし……あっ!」
膝を叩く音が聞こえた。操作を誤ったのか、ユミオの機体がコースから外れて煙を上げている。

ユミオは女のことを口にしようとはしなかった。俺は俺で気になってはいたが、ついさっきまで「ヨシタケがいつ来るだろう」なんてことを囁き合いながら、ここでよろしくやっていたのかと思うと、訊く気にはなれなかった。
「ヨシタケ、バイトとかもしてないの?」
「してないよ」
「これからのこと、考えてるの?」
「全然」

死ぬために、お前に背中を押してもらうために会いに来た――言えるはずもない。
「バイトとかするならさ、コンビニの夜勤だけはやめといた方がいいよ」
「なんで? 暇じゃないのか、夜勤なんて」
「場所によるかもだけど、俺がいたところは客が多いくせに明らかにバイトが少なくてさ。店長はいつも死にそうな顔でドヤしてくるし、催事のケーキとかウナギとか売れ残ったのを買わされるし。やるなら暇そうなトコの直営店がいいよ。オーナーなんてどいつもケチ野郎だから」

「まじか……っていうかその脚でよくコンビニ受かったな?」
「就活始める時に、特注でサポーター作ってもらったんだ。走ったりしゃがんだりは無理だけど、見た目普通には歩けるからさ」
ユミオは当時の怒りがぶりかえして来たらしく、その後もしばらくの間、労働環境や店長に対して文句を言い続けた。俺は適当に相槌を打ちながらコントローラーを握っていたが、既にゲームには飽きていて、勝敗などどうでもよくなっていた。

外はいつの間にか日が暮れていた。照明が汚れているせいで天井の隅が薄暗く、学生時代に友人と見た心霊番組を思い出した。
パソコンもなく、かといって本やゲームが大量にあるわけでもなく、コンビニに顔を出すだけの、牢獄のような二年間とは一体どんなものだろう。俺だったら精神に異常を来してしまいそうだが(もっとも、ユミオはうつ病と診断されているらしいが)、女がいればそんなことも平気なのだろうか。
「ちょっとトイレいいか」
「うん」
ユミオはコントローラーを手放すと、力むような声を上げながら体をしならせた。ユミオの声を背に部屋を出る。ノブを握るとドアが悲鳴を上げるように軋み、走り抜ける車の音に掻き消された。顔を上げると、半開きになった窓の向こうに車道が見えた。風が入り込んでくるせいか、トイレの中は部屋よりも寒く、用を足すと体が震えた。

廊下に出ると、キッチンの隅に目が留まった。
「なんだこれ?」
そこには、平たい小さな箱のような物が置かれていた。一見するとただの段ボール箱のようだが、赤文字で(内部接触厳禁・飲食不可)と書かれている。さっき来たときには気づかなかったが、昨日はなかったように思う。
「(内部)ってことは、外側は別に触っても大丈夫ってことだよな」

箱の前にしゃがんで恐る恐る手を伸ばすと、部屋の中から着信音が聞こえた。見咎められるような気がした俺は、反射的に手を引っ込め、ドアを振り返った。
『もしもし、どうした?』
ドア越しに、くぐもったユミオの声が聞こえる。
『バッグ? ちょっと待って――あ、あったあった! めっちゃ忘れてるよ!
――今から? っていうかまだ帰ってなかったの? ――いつも突然なんだよ。さっきだって何の連絡もなく――分かったよ。でも部屋は無理だかんね』

通話が終わると、俺は少し間をおいてからドアを開けた。立ったままのユミオが口を開く。
「ヨシタケごめん、ちょっとこの後さ……」
「俺そろそろ帰るわ」
「え?」
「今日行きたいとこがあったんだよ。忘れてた。悪い」
「なんだよ。次のステージ凄いのに……」
「また今度な」

「明日も来るよね?」
「え?」
「だって、まだ勝負ついてないよ」
「お前の勝ちだよ。どう考えたって」
「一泊も二泊も変わんないじゃん。それに、近くに旨いラーメン屋あるんだ。明日行こうよ。せっかくこっちまで来たんだし……」

目的が果たせないと分かった今、ユミオに関わる理由は何もなかった。退屈なゲームに付き合うのも、ひがみや嫉妬の感情に振り回されるのも、もう懲り懲りだった。
しかし、ユミオの懇願する姿に、懐かしさを感じずにはいられなかった。入学してすぐ、足を引きずりながら一人で取り残されていたユミオに、俺はなぜ声をかけたのか……。

つづく

 

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