黒い海から | 04 完結

黒い海から | 04 完結

結局、断りきれなかった俺は、憮然とした足取りでアパートを出た。すぐにネットカフェに行く気にはなれず、かといって高所に登るのもしんどい。腹が減った俺は、駅周辺をうろつきながら適当な飯屋を探すことにした。
ひび割れた壁に配管がのたくった灰色の路地を抜けると、道の向こうに二人の男の姿が見えた。和彫り柄のジャンパーを揺らしながら、酒瓶を掲げている。辺りに人通りはなく、街灯だけが男たちの派手な背中を照らしていた。

「なあ、本当にどっかで会った気がするんだよ!」
声がでかかった。距離が近づくと、男たちの向こうに女がいるのが分かった。小柄なため、遠くからでは見えなかった。さっさと通り過ぎてしまおうと、俺は足を早める。
「まじで覚えてねぇのか? こんなに言ってんのによ」
「寒いしさ、飯でも食いながら話そうよ。食いたいもんとかねぇの? 言ってみなよ」

女の顔が目に入り、俺は思わず声を上げそうになった。ついさっき、ユミオの部屋の前で鉢合わせした女に似ている。俯いているため顔はよく見えないが、セーターの柄を思い出し、俺は確信した。女がこちらに気づいた様子はなく、体の震えをおさえるように肩を抱いている。

「あんまシカトこいてっと、こっちもマジで気分悪いぜ? え、おいっ!」
怒声には慣れていた。酒瓶くらいなら跳ね返せる自信があったし、例え刃物を出されたとして、その時はその時、死んでも別に構わない気がした。どんな最後だろうと、莫迦な奴だったと笑われるのは一緒だ。
男たちの死角を突きながら女に近づき、そっと肩に手を伸ばす。
「遅いから探したよ。みんな待ってるぜ」
女がびくりと体を震わせながら振り返る。見開かれた目元から、今にも雫が零れ落ちそうだった。
「なんだてめぇ?」

男たちの血走った視線をかわし女の手を取った。
「行こう」
男どもに背を向けると、直後にガラスの割れる音がした。振り向くと、割れたガラス瓶を手に、男が前かがみになっている。顔が赤いのは、アルコールのせいだけではないようだ。
「聞いてんだろうが! 待てよ、コラっ!」
鋭利な瓶の先が、猛禽の爪のようにギラついている。ドスを利かせたつもりの鼻声が、気味悪く耳を撫でる。
「彼女が嫌がってる。それで充分だろ」
手を引きながら駅を目指した。男たちが追って来る気配はなかった。

「あの、さっき……」
明るい通りに出たところで、女が口を開いた。
「アパートで会ったよな。驚いた」
「はい。……すみません、迷惑をかけてしまって」
「今日はもう帰った方がいいと思うよ」
「そうします。ユミオがお世話になってます」
駅前に着くと、女は何度も頭を下げた。礼を言われるのが苦手な俺は、そそくさとその場を離れ、バスロータリーのベンチでコーヒーを開けた。いつもの銘柄だが、別物のように苦く染みた。

#

 翌日、目が覚めるとユミオからメールが届いていた。内容は「午前中に用事ができてしまったから、午後に来てくれ」というもので、二度寝する気にもなれない俺は、ネットで時間を潰してからアパートに向かった。

ユミオはゲームを点けたまま、テレビの前で本を広げていた。建物の写真集のようだが、特に興味はそそられなかった。ちゃぶ台の上には新しいコーラボトルが置かれている。甘いのばかり飲んでいるようだが、その割には空ボトルが少ないのが不思議だった。部屋から白いバッグが消えている。午前中の用事とはこのことだったようだ。俺はユミオの耳に届かないように、天井を仰ぎながら長い溜息をついた。

ユミオの下らない話を聞き流し、コントローラーを握りながら淡々と時間を過ごした。昨日よりは操作に慣れた気もするが、退屈なことに変わりはなかった。
ユミオと居るのが苦痛という訳ではない。ただ、抱いていた期待が大いにはずれ、家に帰ればまた鬱々とした日々が続くのかと思うと、目の前が真っ暗になるような喪失感に襲われるのだ。

ゲーム画面に近未来的なビル群が映り、マンションから見た景色が脳裏をよぎる。灰色の地上を覆う黒い海は、吹き付ける風に負けじと恐ろしげなうねりを上げている。波をかぶり渦に足を取られながら、図太く生きるでも死に急ぐでもなく、海底に緩慢に沈んでいくのを、俺は待つことしかできないのかもしれない。

「そういえば、昨日ミコトが世話になったんだって?」
「ミコト? あぁ、お前の彼女、ミコトちゃんって言うのか」
ユミオは俺の顔を見て首を傾げた。
「あれ、俺に妹がいるって言ってなかったっけ?」
今度は俺がユミオの顔を見る番だった。

「お前、兄妹いたのか。それじゃあ、昨日ここに来てた子って……」
「俺の妹だよ。あいつ、いつも何の連絡もなしに突然来るんだよ。何も困ってないって言ってるのに、親にも言わないで勝手に色々持ってきて……」
昨日、扉の前でミコトと会ったのをユミオは知らない。口を滑らせてしまったが、不審に思われてはいないようだ。
「ともかくありがとね。今時、ガラの悪い奴もいるもんだね」
ユミオが口を閉じると同時に、ステージが終わった。順位が表示され、準決勝進出を告げるテロップが流れたところで、俺はポーズボタンを押した。

「腹減らないか?」
「あ、もうこんな時間か。そうだね、なんか食べにいこっか」
「昨日言ってた旨いラーメン屋、連れてってくれよ」
廊下に出た俺は、キッチンの隅に置かれた箱を指差しながら、ユミオに尋ねた。
「これ、触ったらマズイとか書いてあるけど、何が入ってるんだ?」
「それは……えっと、なんか洗剤みたいな奴だよ。混ぜるな危険ってあるじゃん」

「洗剤か。あ、財布忘れた」
「先に出てるよ」
ユミオはそう言って靴を履き始めた。財布を拾って再び廊下に出ると、ちょうどドアが閉まるところだった。
俺は箱の前にしゃがんだ。部屋が薄暗いのは、照明と窓が汚れているからだ。掃除なんてしたこともないのだろう。洗剤が入っているのなら、何か役立つかもしれない。
「空か?」
箱は思いのほか軽く、側面にいくつも穴が開いていた。不審に思いながらためつすがめつしていると、底の方に小さな文字が書かれていた。
(強力ネズミ取り 粘着タイプ)
俺は注意して箱を元通りにすると、慌てて外に出た。

#

 ユミオはサポーターを付けているらしく、足を引きずるようなこともなく、ラーメン屋にはすぐに着いた。店内は天井が高く広々としていて、黒を基調とした落ち着いた内装は、俺のラーメン屋の印象とはかけ離れていた。
テーブル席に腰を下ろし、すぐに店員を呼ぶ。ユミオはすでに注文が決まっていて、俺は腹が膨れれば何でもよかった。
「妹って何歳なんだ?」
「十九だよ。大学一年」
「仲良いんだな」
「俺がこんなだからさ、ほっとけないみたいなんだ。あっ、そうだ」
ユミオはポケットをまさぐり、小さな紙切れを取り出した。

「渡してくれって言われてたんだ」
「俺に?」
「うん」
ユミオは目を細めながらゆっくりと頷いた。頬が微かに緩んでいる。紙切れには電話番号とメールアドレスが書かれていた。年齢を匂わせない、細いが筆圧のある字だった。
「これ、ミコトちゃんが?」
「そう。ちゃんと礼が言いたいんだってさ。連絡してあげてよ。あいつがこんなことするの、初めてなんだぜ」
店員がラーメンを持って来た。テーブルが瞬く間に熱気と臭いに覆われる。俺は麺をすすりながらも、紙切れから目を離すことができなかった。俺だって、こんなものを渡されたのは初めてだ。

「えへへ」
「……なんだよ」
「大事にしてやってくれよ。でも、ヨシタケなら安心かな」
「礼がしたいってだけだろ。それに、俺の何が分かるんだよ」
「分かるよ」
俺は紙切れをポケットの奥にしまい、麺をかきこむように啜った。顔が熱をもってくるのをラーメンのせいにしたかった。

孤独にさいなまれ、布団の中で後悔に暮れる日々だった。出口のない、牢獄のような一年だった。これは何かのきっかけなのだろうか。ようやく訪れた転機なのだろうか。
くだらない期待に支配されそうになり、あまりに単純な自分に呆れ返る。しかし、俺が変われるのは今なのかもしれない。
壁に求人のチラシが張られている。地元より時給が二百円も高かった。大した経験も資格もないが、面接だけならすぐに受けられそうだ。

「バイトでも始めるか……」
「ん、なんか言った?」
ユミオが顔を上げる。前歯にネギを張り付かせながら、神妙な顔をしているのがおかしい。俺は水を一口飲んでから、口を開いた。
「今日さ、泊まってもいいか?」
「え、俺んち?」

「あぁ」
「すぐ帰りたいんじゃなかったの? 昨日だって……」
「まだ、勝負ついてないだろ」
俺は両手を顔の前に掲げると、体を傾けながらハンドルを切る真似をした。
「あははっ! なんだよそれ。全然違うし!」

ユミオの顔が華やぐと、俺の心には小さな火が灯った。孤独に震えていた一年も、この瞬間のためにあったのだと思えば、別にいいような気がした。
それからも俺たちは下らない話に花を咲かせながら、店員の視線が熱を帯びてくるまで店に居続けた。
帰り道、俺はコンビニに寄った。腹はタプタプだが、どうしても欲しい物があったのだ。コーラボトル。今度は俺が買ってやるんだ。

おわり

 

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