これから夏が訪れる|08

これから夏が訪れる|08

次の日、まだ暗いうちに目が覚めた。眠り足りない気もしたけれど、天気が気になった私は、這うように布団から出てテレビを点ける。CMが終わるとちょうど天気予報が流れた。午前中は曇りで、午後から晴れるらしい。
立ち上がって窓を開けると、外から生ぬるい風が吹いてきた。時間帯もあるけれど、雲が出ているせいかいつもより暗く感じる。私は扇風機のスイッチを入れると、再び横になり、スダチくんのことを考えようとしてやめた。

遠くから蝉の鳴き声が聞こえてくる。テレビの音声と混じり合い、ノイズのように頭に響く。私は耳をふさぐように布団をかぶり、子供のように丸くなると、とくとくという心臓の音だけを聞きながら、目をつむった。

いつの間にか眠っていたらしく、お母さんに呼ばれて目が覚めた。居間に降りると食卓に冷やし中華が置かれていた。つやつやとした麺の上にキュウリ、卵、トマト、もやしが整然と並んでいる。今年初めての冷やし中華だった。私はお母さんに「おはよう」と短く言うと、顔も洗わずに食べ始めた。
「お母さん、今日の夜、私ちょっと出かけるから」

洗い物の手を止め、お母さんが振り返る。
「いつ帰るの? ご飯は?」
「ご飯はうちで食べてく。帰りは遅くなるかもだけど、でも今日中には帰れると思う」
「そんな遅くにどこに行くのよ?」
「どこって……」
「男の子?」
「違うよっ」

口を閉じてすぐに後悔した。こんな言い方をしたら、動揺していることが見え見えじゃないか。お母さんはタオルをつかむと、念入りに手を拭いながら口を開いた。
「泊まりだったら、お父さん心配するわよ」
「だから今日中には帰るって」
「誰と遊んでも構わないけど、あまり遅くならないでよね」

私は冷やし中華を食べ終わると、食器を片付けてからそそくさと浴室に入った。今の季節、午前中の内に一度シャワーを浴びるのが日課だった。汗で体がベタついているからだ。私はお母さんがヘアパックをするときに使っている、タオル生地のヘアキャップをかぶると、ぬるめのシャワーを出して肩から浴びた。沢山の水滴が体を伝い、足元ではじける。眠っている間に肌に浮き出た色々が、音を立てて排水口から流れていく。

お母さんは私が男子生徒と会うことに気づいただろうか。あんな下手な嘘をついたのだから、何かしら怪しまれているのは間違いないだろう。でもそれなら、只でさえ友達が少ない私なんだから、もっと驚いてくれたっていいような気がする。夜に出かけるなんて、私にとってはかなりレアな出来事なんだから。
ぶつけようのない不満の気持ちを噛み締めながら、私はシャワーを浴び続けた。

何もせずに部屋で過ごしていたにも関わらず、時間はあっという間に過ぎていき、蝉の鳴き声が止んだな、と思って窓を開けると、空にはうっすらと星が浮かんでいた。見渡す限り雲はなく、まん丸な月が白い穴のように輝いている。スダチくんの言っていた通り今日は満月だ。
私は制服に着替えると、ペンライトと防犯ベルをポケットに押し込み、鏡の前で髪を整えてから家を出た。

田んぼを抜ける頃には辺りは真っ暗になっていた。街灯を頼りに進んで行くと、やがて校門が見え、制服を着たスダチくんの姿が目に入った。
スダチくんは私の姿に気がつくと、黙って手を上げた。目立たないように警戒しているらしい。
スダチくんの自転車は、校門の横に陰になるように置いてあり、私もその隣に止めることにした。

「早かったね」
「うん。スダチくん、きっともう来てると思って」
「ご両親には心配されなかった?」
「友達と出かけるって言ったから、大丈夫」
「そっか。じゃあ早速行こうか」

校門の柵は登ろうとすると思いのほか高く、先に入ったスダチくんの手を借りながら、やっとのことで越えることができた。たったこれだけのことで、ひたいに汗が浮かび息が切れていた。無理を言って付いて来たのに、こんな所で手を煩わせてしまうなんて。私は恥ずかしさに、息を整えながらうつむいた。

私が落ち着いたのを見計らって、スダチくんが歩き始めた。校庭に入ると、真っ暗な校舎が巨大な壁のように見える。一見すると誰もいないようだけれど、巡回をしている警備員がいるはずだ。
スダチくんは正面玄関を通り過ぎると、校舎の端の方へと進んでいく。

「どこから中に入るの?」
「非常階段さ」
「避難訓練の時に通ったところ?」
「そう。あそこだけは夜でも入れるようになっているんだ」
体育倉庫を越え、水道を越え、私たちは非常階段の前に立った。錆びついた格子状の扉が、堅牢な檻のようにそびえている。

私は肩を抱えて縮こまるように身震いした。校庭を歩いているときには平気だったのに、いざ校舎内に足を踏み入れるとなると、途端に気味の悪い感覚が膨らんできた。
スダチくんは平然とした様子でノブに手を伸ばすと、体重を掛けながらゆっくりと開けていく。耳障りな金属の音が首筋を撫でるように響き、思わず耳を塞ぎそうになる。スダチくんは怖くはないのだろうか?

「よし、これで通れそうだ。あれ、ハヤシさん?」
「えへっ?」
突然声をかけられたせいで変な声が出てしまった。私は慌ててスダチくんを見上げる。
「大丈夫? 顔色があまり良くないけど……」
「暗いからそう見えるだけだよ。さっ、行こう行こう」

私たちは非常階段を登り始めた。この階段は、非常時以外では侵入が禁止されているため、年に一度行われる避難訓練の時にしか使われることがない。雨ざらしのうえ、ろくに手入れや掃除もされていないため、所々塗料が浮いて金属が覗き、手すりもサビだらけでとてもつかむ気になれなかった。

スダチくんは足音を殺しながら、どんどん階段を上って行く。私たちのクラスがある三階が見えてきた。ふいに外を見下ろした私は驚いた。いつも教室から眺めている景色と、まったく違うように目に映ったからだ。夜というせいもあるかもしれないけれど、こんなに高い場所で学校生活を送っていたのかと思うと、なんだか不思議な気持ちになる。

三階を通り過ぎ、さらに上に登っていく。非常階段は五階までしか繋がっていないはずだけれど、一体どうやって屋上に入るつもりなのだろう。
非常階段の最上部に辿り着くと、スダチくんは扉から廊下の様子を確認し、ノブに手をかけた。カチャリと音がして、まるで私たちを待っていたかのように自然に開いた。

「よし。入れる」
「鍵とか、かかっていないんだね」
「この扉だけ、いつも戸締りが忘れられているんだ。だから昼間のうちに僕が開けておいた」
「そうだったんだ」
「警備員もこの階にはいなそうだから、今のうちに通り抜けてしまおう」

廊下に立つと非常階段から風が入り、しんとした空気が揺れるのを感じた。私は音を立てないように、そっと扉を閉める。
「よし、屋上まであと少しだ」
スダチくんが囁くように言うと、私たちは息さえ止めるように、慎重に廊下を進んでいった。

校舎内は思ったより明るくて、窓から入る月明りがぼんやりと空間を照らしている。おぼろげに浮かび上がる壁や床が空間に溶け出すようで、まるで雲の中を歩いているような、上も下も区別のないふわふわとした感覚に包まれる心地がした。

毎日歩いている廊下が(五階には来ないけれど、どこも似たようなものだ)こんなにも非現実的に目に映るのは月明りのせいだろうか。まるで夢の中にいるような不思議な浮遊感に、私はいつの間にか怖れや不安の気持ちを忘れていた。
廊下を抜けて校舎内の階段に入ると、急に暗闇に包まれた。窓がないせいだ。
「明かりを点けようか。このまま登るのは危なそうだから」
「そうだね。ここなら見つかることもなさそうだし」

足元を照らしながら、踏み外さないように一段一段注意して上がっていくと、すぐに扉の前に出た。スダチくんがノブを握りながら振り返る。表情はよく見えなかったけれど、私たちは何かを確かめるように同時に頷いた。
聞き慣れた鈍い音を響かせながら、扉がゆっくりと開いていく。月明かりが差し込み、眩しいほどの光に思わず手をかざしてしまいそうになる。扉をくぐると、昼間と変わらない屋上の景色が目に映り、私たちはそろって長い息を漏らした。

「こんなに明るいなんて」
「そうだね。今日は本当にいい夜だ」
私たちは懐中電灯を消すと、フェンスに沿ってぐるりと屋上を一周した。昼間には自由に動けないぶん、周りの景色を残らず目に収めておきたかった。森や田んぼの方は真っ暗でほとんど何も見えなかったけれど、町の方はまだ明るくて、国道を走る車が粒のように光っていた。
静かだった。森のそよめきや虫の声が時折風に乗ってやってくるが、町の喧騒は遠く、月明かりの下、時間が停止しているかのようだった。

「スダチくんさ、夜の学校に入るの初めてじゃないでしょ?」
「どうして? 今日が初めてだよ」
「だって、全然平気そうだから」
「そんなことないさ。廊下を歩いているときなんか、今にも見つかるんじゃないかって、ずっと怖かったよ」
スダチくんは顔の前で手を振りながら言った。その仕草がやけに大げさで、私は思わず吹き出してしまう。
頭をかくスダチくんを横目に、私はフェンスに寄りかかりながら空を見上げた。つられるように、スダチくんもその場で顔を上げる。

世界中の一番高い所にいるような気がした。まばゆい月明かりも、声をかけ合うような星の瞬きも、この場所だけに降り注いでいるようだった。きっとこの景色は、今この瞬間にしか見ることができない、ほんの少しの力で崩れてしまう脆いもの、夢のように忘れられてしまう儚いもの――私はなぜかそう思わずにはいられなかった。
「……そろそろ始めようか」
「もう?」
「うん。誰も来ないとは思うけど、早く済ませるに越したことはないよ」

私は儀式を行うのをためらった。というかすっかり忘れていた。UFOを呼ぶための、私たちしか知らない儀式、呪文めいた異国の言葉が頭を駆け巡る。
スダチくんは今日のために、幾度に渡る屋上での儀式を行ってきた。私だってそれはよく分かっていた。でもスダチくんのように、異星人に会いたい、彼らの星に連れて行ってもらいたい、などと思ったことはなかった。信じるか信じないかは置いておくとして。

このまま朝まで過ごして、そうしたらきっとお母さんたちに心配されるし、行って帰ってきただけで何もやらなかったことになるけれど、別にそれでいいんじゃないか。UFOなんか呼ばなくたって、異星人なんか会わなくたって、今みたいな時間を過ごせるだけで十分じゃないか。関わってきた場所、関わってきた人たち、沢山の思い出――そんな一切を捨ててしまうほど、スダチくんはこの世界が嫌だというのか。

「……ハヤシさん? 大丈夫?」
スダチくんが心配そうな目を向ける。異星人を怖れていると、思われてしまったかもしれない。今この時、そして屋上で過ごしてきた沢山の時間が、過去のものになってしまうのが辛い。私の気持ちはそれだけだった。

でもだからといって、今頃そんなことを言うのはあまりに勝手だ。どんな形であるにせよ、いずれスダチくんがどこか遠くに行ってしまうのは、よく分かっていたはずだ。無理を言って、危険を冒してまで屋上に連れてきてもらったのは、スダチくんを止めるためじゃない。
私は「なんでもない、大丈夫だよ」と言って頷いた。

つづく

 

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