「映画作ろうよ」ファミレスで考えた、”表現者”と”職業作家”の違い

「映画作ろうよ」ファミレスで考えた、”表現者”と”職業作家”の違い

休日、とある駅前で友人と待ち合わせをした。

早朝というほどではないけれど、まだ町が活気づく前の時間帯に僕らは落ち合った。大した予定もなく集まったので、いつものごとく辺りを散歩しながら適当な時間にファミレスに入った。近頃SNSで話題の(ような気がする)お手軽イタリアンチェーン “サイゼリヤ” だ。

何十回と来店しているにもかかわらず、いまだに “サイゼリア” と書き間違えそうになるが、ともかく僕らはシュリンプサラダなんて洒落た草の盛り合わせを食べながら、唐突に「映画作ろうよ」なんて話をし始めたのである。

いや、正確には唐突でもなんでもなくて、僕が地元の駅前で「ショートフィルムコンテスト 賞金10万円」なんてポスターを見つけて、唐突に写真を送り付けたのが発端だ。

僕は一眼レフカメラを買ったばかりだし、Adobe の動画編集ソフトもパソコンに入っている。後者に関しては起動さえしたことがなくて、大枚をはたいたクセに宝の持ち腐れなのだけれど。

とにかく設備はそろっている。加えて賞金も出るそうだから、話にも自然と熱が入る。

 

ストーリー作りが始まる

映画を作るにはまず脚本がいる。そのため、まずはストーリー作りから話が進んでいった。

どちらが最初に言い出したのかは忘れてしまったけれど、ちょうど今の僕らのように、何か作品を生み出そうとしている人を主人公にしよう。ということになった。男の年齢は20代前半、美術大学でデッサンや写実画を学び、高い技術力を活かした人物画を得意とするアーティストだ。

物語は、作品制作を重ねても成功をつかめない男が、唐突に描く技術までも失ってしまう所から始まる。打ちひしがれて、投げやりに制作した作品をプレゼンしたところ、思ってみない評価をされて……という流れになり、あらすじを書いたら1000字くらいになった。映像にすれば、5分前後の短編になるだろう。

ジャンルは分からないけれど、ちょっと不思議で暗い雰囲気の作品だ。後味もあまりよくはないかもしれない。

どうしてこんな話になったのか。それは僕らの経験によるものだと思う。友人は学生の頃から楽曲提供やバンドなど、長いあいだ様々な制作活動を行ってきた。僕も文章を書いたり写真を撮ったり、作品を形にしては同人イベントなどで発表を繰り返してきた。

お互いに自分の内側を作品にして発表する、ということを繰り返してきたからこそ、スランプや引き出しが尽きてしまうことに対する恐怖があったのではと思う。実際にそれを体験したかどうかは別にして。

 

表現者と職業作家、その大きな違いとは

以前、イラストレーターの中村祐介さんがインタビューで「プロにスランプはない」というようなことを言っていた。サラリーマンが「スランプだから仕事が終わりませんでした」なんて理由にはならないのだから、芸術に携わる職業だろうとプロを名乗っているのであれば、スランプを言い訳にしてはいけない。というようなニュアンスだったと思う。

表現者なのか職業作家なのか、肩書によって抱く印象は変わってくる。イラストレーターと聞くと “職業” 感があるし、画家と聞くと “表現者” が先に浮かぶ。写真家・フォトグラファー、ライター・著述家など呼び方は様々だけれど、やはりこの2つに分かれるような気がする。

僕は表現者とスランプは密接だと感じている。例えば小説家に対してはいまだに、机に向かって頭を掻きむしりながら「う~ん、書けない!」なんて叫んで、原稿用紙をくしゃくしゃに投げ捨てている印象があるし(実際には喫茶店でコーヒー片手にMac bookカタカタって感じらしいが)、作品発表にかかわらずSNS・ブログなどの利用においても、コンスタントに活動している人が非常に少ないからだ。

小説家の馳星周さんなどはブログ ワルテルと天使たちと小説家 において、ほぼ毎日のように軽井沢の絶景と凛々しいワンちゃんの写真を載せているが、このような人は本当に珍しいと思う。(小説家の新堂冬樹さんもブログ —白と黒— をかなり頻繁に更新しているが、どちらもノワール作家と言うのが意外でおもしろい)

フィクションにしろノンフィクションにしろ、作品を制作することは少なからず自分をリソースにしなければならない。それは単に知識や経験だけではなくて、人生でつちかわれてきた価値観だったり、子供時代の境遇だったりする。作家のインタビューなどを目にすると、幼少期の体験や生活の場が作品に反映されている、と感じることが多くある。

そういった物は他の人で変わりが利かないし、本を読んだり旅行に出かけたり、そんな行動で簡単に増やせるものでもない。

つまり “表現者” は体を削りながら作品を作っているようなもので、皮膚を失って骨が見えて、それでも止まらずいつか脚を失って立てなくなったら……。という恐怖が常にあるのだと思う。

いちど削ったところを違う視点から見つめ直したり(自分がいじめられていたのなら、いじめっ子の立場になってみたり)、新しい経験から自分でも気づかなかった内面に気が付いたり、スランプと脱却を繰り返しながら制作を続けていくのではないか。

 

映画制作は難しそうだが、貴重な時間だった

「映画を作りたい」の話に戻る。この日はファミレスにおいて、スランプに陥った画家の話と、恋愛映画を撮ろうとするがうまくいかない映画監督の話、が完成した。あらすじだけだけれど。

友人が冷静に、映画を作るにはこういう役割が必要で分担があれこれ……と案を出してくれたのだが、僕が勢いにまかせてしゃべっていたせいで現実味はかなり遠のいてしまった。

コンテストには提出できないけれど、ミラノ風ドリア 100皿分くらいのカロリーを得た気がして、帰り道は気を抜いたらスキップしてしまいそうだった。

こういう時間はたぶん、自分が思っている以上に貴重なのだ。文字に起こしたらたった数千字のフィクションだけれど、互いに体から削り落とした何かが入っているのだから。

空想をめぐらしていると、頭の中に様々な場面が浮かんで映像が次から次へ、止まらなくなることがある。たぶん友人も同じような状況になっていたと思う。頭の中を録画する装置があれば便利だけれど、変な妄想まで覗かれたら困るからやっぱりいいや。なんて技術の発展を夢見た。

 

 

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