死ぬのが怖いこと

死ぬのが怖いこと

 

小さい頃から様々なものに怯えて育ってきた。寝起きの機嫌が悪く、癇癪持ちの母が怖かったし、水が怖くてプールの授業は前日から憂鬱だった。徒競走で鳴らされる鉄砲の音が怖くて、耳を塞いでスタートラインに立っていたし、予防接種の朝はこの世の終わりのような気持ちで登校していた。

この様々な怖いに関しては、ひとつひとつ色濃い思い出があり、いずれ別の記事で書いていこうと思うので、今回は死ぬということに限ってみようと思う。

死に対する恐れは、幼少期に誰もが抱くことらしい。「自我の芽生えであり、子供にとっての通過儀礼となる」などと聞いたことがあるが、僕が死に悩んでいた小学校中学年の頃は、周りに同じように怯えている人がいるなんて夢にも思わなかった。誰かに打ち明けたこともないし、友人や先生と話したこともない。

毎日笑い合っている友人、自信たっぷり気な先生と両親、そんな彼らに死の影なんて微塵も感じなかった。だからかは分からないけれど、死というものは平等で、年上の人間の方が確実にそれに近いなはずなのに、僕はただただ自分が死ぬことだけが怖かった。

当時の僕にとって、一番身近な死とは眠りだった。寝ている人が死んだように見えるとか、ちゃんと同じ部屋で目が覚めるか不安だとか、そういうことではなくて、意識が途切れたま何時間も過ぎ去ってしまうのが恐ろしかった。

枕元に時計を置いて、意識が途切れる瞬間を見極めてやろうと思ったり、家族が寝息を立てる中、朝まで起きていようとひとり目をギラつかせていたり、そんな様々な作戦を行ったが成功したことはなかった。カーテンから差し込む朝日に照らされて、埃っぽい寝室で咳をしながら体を起こす。そして「あー、またやっちゃった」と毎回のように頭をかいていた。

どうして死ぬのが怖いと考えるようになったのか、きっかけは分からない。筋肉と爆発とマシンガンが炸裂するようなアクション映画ばかり見ていて、それこそ人がバッタバッタ死んでいくが、倒された悪役に同情したことはなく、人が画面の中で殺し合っているのがひたすら爽快だった。

どちらかというと、おじいちゃんに借りていた江戸川乱歩の影響が強かったように思う。どろどろとした独特の世界観に想像力をかき立てられ、作中描かれる恐怖以上のものを受け取ってしまったのかもしれない。

死を怖がるようになってから、映画の見方も少しの間だけ変わった。前述したように、人が死にまくるアクション映画ばかり見ていたが、以前は主人公に倒されるだけの悪役について、深く考えたことなんてなかった。主人公の行く手を阻む、ただの障害物のようにしか見ていなかったからだ。

フィクションとはいえ、彼らもきちんとした物語の中に生きている。ひとりひとりに家族がいて、好きな食べ物があって、休日にソファでお気に入りの映画を見るのが習慣になっているかもしれないし、犬を連れて近所の公園をランニングしながら道行く人とあいさつを交わしているかもしれない。料理とかスポーツとか楽器とか、周りが憧れるような技能だって持っているかもしれない。

しかし、頭を弾丸で打ち抜かれるとか、首の骨を折られるとか、車ごと爆発するとか……。そういった瞬間に、それらすべてがこの世から消えてなくなってしまう。命がなくなるということは、その人の肉体が動かなくなるだけではなくて、沢山の人に影響を及ぼし世界に大きな空白を作ってしまう。

考えてみれば当たり前のことだけれど、僕はようやく死の重大さに気がついたのだ。シュワルツェネッガーが機関銃をぶっぱなしまくるような映画を見て。

考えに至った瞬間、体温がすーっと下がっていくような、虚しさとも悲しさともつかない感情に襲われた。かろうじて映画は最後まで見たけれど、内容はほとんど頭に入っていなかったと思う。人が殺されるたびに様々なバックグラウンドが頭を過り(作中では描かれていないにも関わらず)パンク寸前だったのだ。

しかしそれ以降、アクション映画を見られなくなったかというとそんなことはなかった。筋肉男が戦う姿はそれほどに僕を魅了し、死の恐怖なんかすぐに吹き飛ばしてしまったのだ。相変わらずホラー物は見られなかったけれど。

そんな訳で、死に対して本気で怯えていた期間はそれほど長くはなかった。というかいくら考えても答えが出ないから、飽きて忘れてしまったのだと思う。

昨年、おじいちゃんが亡くなった。84歳だったから長生きだったと思う。芸術における技能がすごくて、書道はプロ級、絵を描いたり音楽を奏でたり、信じられないくらい活動的で、なんでもできるようなおじいちゃんだった。

ガンだったが、あまり苦しんでいる様子はなかった。死の直前、病床では過去を振り返るように言葉を発することが多かった。目は閉じたままで、意識は朦朧としているようだったが、口調はそれを感じさせないくらいはっきりとしていた。

しかし、お葬式で見たおじいちゃんの顔は生前とは全然違っていて、かつて死に恐怖していた時の虚無感が、再び思い起こされるようだった。

今でもたまに死について思うことはあるけれど、ここ数年は「死ぬのは別に特別なことでもなんでもない」という考えに落ち着くようになった。特別じゃないというのは「誰にでも訪れること。悲しいが不幸ではない」とかそういう意味ではなくて「死を大げさに考える必要はない」ということだ。

パソコンの電源を落とすのと同じで、魂が抜け出してお化けになることもなければ、別世界に連れていかれることもない。肉体が活動を終わる、というただの現象に過ぎないのだ。

意識の面だけで考えれば、毎晩寝床で死んでいるようなものだ。夢さえ見ないような深い睡眠が永遠に続くのと、体感的には同じだから。意識というものは唯一の自分でもなんでもなくて、単なる脳の機能だと思う。だから、超自然的な現象が起こる余地はないと僕は思うのだ。

しかし、これだけ大口を叩いておきながら未だに恐怖を振り払うことはできない。そもそもこんな簡単に払拭できれば、多くの人が死後の安らぎを求めて宗教に傾倒する、なんて世の中にはならないのだ。

「死とは生まれる前にいた場所に戻ることだ」以前ネットサーフィンしている時に見かけた、名前も知らない人の言葉だ。何かの引用かもしれないが、妙に心に焼き付いていて忘れられないのだ。

生まれる前も死んだ後も、天国も地獄もありはしないと思うが、このような考えは安らぎをもたらしてくれる。生まれる前の場所に戻ったとして再び生を得たいかは分からないけれど、不安にさいなまれたときはぼんやりと、この言葉を思い出すようにしている。

 

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